我が子の障がいの受容は難しいのだが、結果として、とても豊かな人生になったと思う。

パソコンのデータを整理していて、娘の誕生のことを記した母親の手記があったので紹介する。

結構、ヘビーな内容である。障がいは本人だけあるのではなく、周囲の環境によるものが大きいので、社会との関係を調整する必要があると思い続けてきた。娘は学校を卒業する年齢となり、親父は、ようやく相馬に作業所を作り、動き出したのでした。

 

以下、本文。

 

baby

 

長女、みづほを出産したのは、予定より2週間早い平成9年10月の朝でし た。 前日の夜から早朝にかけての出産で、第1子の出産としては時間的に順調に進んだこ ともあり、 夫、双方の家族はまだ病院に到着していませんでした。

産声があがり、 「おめでとうございます。体重3,035グラム、女のお子さんです」 そういって見せられた赤ん坊は、確かに女の子でした。一瞬、腕に抱かせてもらいま した。 出産前は誰もが「男の子かな」と言っていましたので意外でしたが、 「女の子もいいか、元気であれば」と思いました。 もっとよく子どもを見たかったのですが、なぜかすぐに医師も助産婦も出払ってしま いました。 小さなベビーベッドが分娩台の足許に離して置いてあり、透明な仕切りのなかで、 生まれたばかりの赤ん坊はさかんに膝を曲げたり伸ばしたりして動かしていました。

元気な子どものようです。私は安堵を感じました。 ちょうど同じ時間帯でお産に入っていた方があったのを思い出し、そちらが生まれた のかも、 と考えました。

廊下の向こうのほうからは楽しげな声が聞こえてきます。 5分、10分が過ぎても誰も戻ってきません。私はなんだか取り残されたように感じ ました。

生まれた子どもが「ダウン症の可能性がある」と知らされたのは、そのあとだったと 思います。 実のところ、今となってははっきりと思い出すことができません。 4年という年月はそう長くはありませんが、正直言って、思い出したくない気持ちも、あるからでしょう。 産室で、生まれたばかりのわが子を目の前にして、私に告げられたのは 「染色体異常」「心臓などに奇形の可能性」「知的障害がある」といった、 「五体満足であれ」という、決して大それているとは考えていなかったただ1つの望 みを裏切る 言葉でした。 初めての出産を無事終えたという喜びを味わう間もありませんでした。

そのあと私は病室に移動しました。 お産のときとは別の助産婦がやってきました。元気がよく、はきはきとした話し振り の若い感じの人でした。 「去年もダウン症の男のお子さんが生まれたんですが、その子はもっと弱い感じのお 子さんでした。 でも、お元気でおられます。ご家族にとても可愛がられていて、たまにスーパーなん かで 買い物しているところを見かけますよ。子どもさんに障害があるからと引っ込み思案 にならずに、 積極的になろうと心がけておられるみたいです」 と話し始めました。 「昔はダウン症の子どもは短命だなんて言われたんですが、いまはそんなことはなく なってきています。 ふつうのお子さんと同じように可愛がって育ててあげてください」

私は何が起こったのかもよくわからない状態でしたから、産室でも部屋でもただ黙っ て話を聞いていましたが、 『短命』という言葉を聞いた瞬間、 それは、打ち消されるために発せられた言葉であったにもかかわらず、ここで初め て、 反射的に何かが強く胸にこみあげてきました。 続いて、『普通のお子さんと同じように』と言われましたが、初めての子どもです。

赤ん坊と身近に接した経験はありませんでしたから、不安が募ってきました。

一人になると、思わず涙が込み上げてきました。 初めての子ども、初めての孫の誕生を待ち焦がれていた家族は、生まれてきた子ども に『障害』が あると知ったら、 大きなショックを受けるに違いないのです。 いったい、何がいけなかったというのでしょう。ただ、運が悪かっただけ? ひとりで受け止めるにはあまりに重い事実でした。でも、ただ泣いているわけにもい きません。

しばらくして、夫が小さなバラの花束を持ってやってきました。 「おつかれさまでした」 夫の顔は少し上気しています。 「ありがとう」 私は泣き腫らした鼻声を悟られまいと少し緊張していました。 「女の子だったね」 「みんな男だと思ってたのに。女の子もいいけど。」 「名前、考えてあげてね。男の子のしか考えてなかったでしょう」 すこし声がかすれ、私は疲れを感じはじめました。 「あのね、」 あまり思いつめた感じに響かないように、私は努めて軽い調子で言いました。 「先生が、お話がありますって言ってたよ。あとでちょっときて下さいって。」

病室は2人部屋なのに、病院側で気を遣ってくれたのか、ずっと一人でした。 授乳が始まる2日目になっても呼び出されず、鬱々と考え込んで過ごすしかありませ ん。 夫もショックを受けてはいましたが、何とかお互いに励ましあうことができる状況に あったと 思います。 双方の両親も冷静に事実を受け入れようとしてくれました。

結局、授乳を始めたのは3日目に入ってからのことでした。 授乳室で対面した娘は、時間になってもとろとろと眠っているばかりで、 母乳はおろか哺乳瓶のミルクに吸い付くのもやっと、という感じでした。 わずか20ccのミルクを飲ませるにも、たらりたらりと一滴づつ流し込むような感 じで、 一時間以上もかかりました。 3時間毎の授乳時間の呼び出しで、授乳室には大勢の母親たちが集いますが、 助産婦と話し込んで遅くなっても、40分もすればみなベビーベッドを押して部屋に戻っていきます。 私と娘だけがいつも冷めたミルクを何度となく温めながら、いつまでも授乳室に 取り残されていました。 不思議なバイアスのかかった目もと。三角錐の小さな空気穴のような鼻。 ぐんにゃりした柔らかい身体。 よその子と違うことは否定できません。授乳の苦労は、私が仕事に復帰してからは夫の母に引き継がれ、離乳食が始まってか らようやく楽になりました。

幸い病気のないみづほの弱点は唯一『口腔』らしく、未だに言葉は数える程しか出 ていません。 でも、やきもきはしたものの1年半と少しで歩けるようになりましたし、顔つきも女 の子らしくやさしくなりました。 今は保育園に毎日元気に通っています。言葉はなくとも物事をよくわかっていて、感 心させられることが多いこのごろです。

初めての出産の直後にただ一人で告知を受けたのは過酷な経験でした。 あのときのことは、4年の月日が過ぎた今も非常につらい思い出です。 でも、みづほが、ゆっくりではあるものの、健康にすくすくと成長している現在に なってようやく、 あれも必要なプロセスだったのかもしれないという気持ちになってきました。 子どもの『存在(あるいは生命)の重さ』を1個の人間の、個人的な経験として受け止 めることができたように感じるからです。 また、みづほの『障害』は、みづほ自身が持っているわけではないということ。 つまり、『障害』とは、実はみづほの周囲にある、有形無形にめぐらされた『障害』 のことなのだ、ということも知りました。  みづほのおかげで、私たち家族はたくさんの深い喜びと感謝とを手にしたように思 います。

 

miduho